ゴー宣DOJO

BLOGブログ
トッキー
2018.1.18 02:25

逃げても、そのあとに無残な続きがある

ライジングコメント欄からの
ご意見紹介です!



お正月休み中に、アンジェイ・ワイダの
【カティンの森】(2007年)という
ポーランド映画を観たのですが、
生涯忘れられない映画との
出会いになりました。

1939年、独ソによってポーランドは
分割され、ポーランド人将校らが
捕虜となりますが、1940年に
ソ連によってその捕虜のうち
約15000人が虐殺された
「カティンの森事件」について
描かれた作品で、捕虜となった将校、
彼らの帰りを待ち続ける家族、
ソ連の衛星国となった戦後という
3つの軸からできています。

最後の20分はあまりに凄まじい
リアリズムの、血も凍るような戦慄で
固まってしまうほど残虐なシーンが
これでもかというくらい容赦なく
映し出されるのですが、
そのショッキングなシークエンスとは
別の意味で恐ろしかったのは、
戦争が終わり、ソ連の衛星国という
形ばかりの独立国家となってからの
ポーランドの惨状でした。

カティンの虐殺を行ったのはソ連
であるにもかかわらず、そして
それを誰ひとり知らない人はいない
にもかかわらず、犯行はナチスドイツが
おこなったとソ連がしたことで、
ポーランド国民は
「カティンの虐殺はナチスドイツが
おこなったものである」という
踏み絵を政府から強いられます。

それができなければ闇に葬られるか、
徹底的な思想教育が行われる。
家族を殺した真犯人が“名目上の“同志
だとわかっているのに、何もすることも、
何を言うこともできない。その状態が
1990年にゴルバチョフによって
スターリンによる虐殺と認められる
まで続きました。
墓碑に“1940年”と刻めるようになった
のもそのときからです(事件が起こった
のが1940年だとすると必然的にソ連の
犯行とわかるため、50年間それが
認められなかった)。


この度のゴー宣にありました
「国家を守れずに、言論の自由は守れない」、
まさにそのものがそこにはありました。

たとえ戦争に負けたとしても、
それですべてがなくなるわけではない。
物理的には国は残る。人も残る。
でも侵略された状態で主権がなければ、
魂の抜かれた形ばかりのものが
そこにただあるだけとなる。
「侵略されたら殺される」とか
「ただ逃げる」で、
「オ・シ・マ・イ」にはならない。

自分が死んでも、どこかに逃げおおせた
としても、そのあとに無残な続きがある
ということを想像してみてほしい。
そしてそれを、誰に押し付け、
背負わせてしまうのかということも。


そうならないために、大人は責任を
持って考えておかなければ
ならないのだと、ゴー宣を読んで
あらためて思ったことであります。
(リボンの騎士さん)


やっぱり、何をどう考えても
侵略・占領されたら何が起こるか
何ひとつ歴史も知らず、
想像力も働かず、ただ「逃げる」
と言ってるようなのを
相手にするのは単なる時間の無駄
としか思えません。
トッキー

次回の開催予定

第117回

第117回 令和6年 5/25 SAT
14:00~17:00

テーマ: ゴー宣DOJO in大阪「週刊文春を糾弾せよ!」

INFORMATIONお知らせ